窓を開けるとどこからともなく金木犀の香りが部屋に入ってくる季節となりました。この香りを屋外で初めて嗅いだのは、高校時代の見学旅行で京都を訪れた時(9月下旬でした)のことだと思います。「トイレの芳香剤か?」と感じたのは、何とも表現力に乏しい話かもしれませんが、おそらく北海道には見られない植物だから(寒さで育たない?)、道産子がそう感じるのは仕方ないかと自己弁護しておきます。
さて前置が長くなりました。忙しさにかまけて前回のブログ更新から2か月以上も経ってしまいました。つい最近ですが、購読している朝日新聞の記事(9月23日付)に「読書感想文マニュアル論争 読者の声は」という題目に引かれて一読しました。私も読書感想文を書くのが苦痛だったので、「マニュアルにまでして書かせるつもりか?」と思いながら読みました。
一読して「なるほどな」と思いつつ、やはりなぜそこまでして読書感想文というものを書かせないといけないのかがよくわかりません。この「マニュアル」自体を読んだわけではないので直接的な批評はしませんが、読書感想文を書かせることを無理強いすることに私は強く反対したいです。読書や読書感想文に関する自分の経験を少し書いてみたいと思います。
私は子どもの時から本を読むことは好きだったようです(当時は意識していなかったので「ようです」としておきます)。小学校時代は、いつだったか親から小学館の「新学習図鑑シリーズ」の中の1冊を誕生日プレゼントか何かで買ってもらって以来、おこづかいがたまったら好きな図鑑を1冊買うのが楽しみで、買ってくると何度も何度も読むという事をしていた記憶があります(今も大切に保管しています)。また、なぜ自宅にあったのか分からないのですが(おそらく親が私に買い与えたものだったと思いますが)、何かの全集の1冊で「西遊記」が収められている巻があり、熱を出して学校を休んだ時はよく布団の中で読んでいたことを思い出します(何度読んでも面白かった記憶があります)。
中学校くらいまでは、夏休み・冬休み前には図書館から本を借りてきて読んでいたものです。この頃受けていた通信教育の国語の問題文に、ムツゴロウこと畑正憲氏の文章が使われていたことがあり、その文章の続きを読みたくて本屋へ行って文庫本を買ってきて読んでからは、しばらくはムツゴロウシリーズに首ったけになっていました。親は「またムツゴロウかい・・・」とあきれるくらいでした。私の読書癖として、ある著者に引かれるとその人の著作ばかりを読み続けるというのは、そのころから始まったのかもしれません。
本は結構読んでいたなとは自分で思いますが、学校の長期休暇の宿題として読書感想文を書くのが本当に苦痛で、一言でいえば大嫌いでした。なんで書かないといけないのだといつも思っていました。本を読みたいけど、読書感想文のことを思うと憂鬱で仕方なかったです。
高校に入ればもうそんな宿題は無いだろうと思っていたら、1年生の夏休みの現代国語の宿題で読書感想文を課せられた時は、「また読書感想文か」ともうげんなりでした。本は読みたいけど何か書かないといけないかと思うと、本を読むこと自体が苦痛になってきました。
夏休みが終わり、一応読書感想文は提出しました。でもこの時は書いていないのです。どういうことかというと、実は中学校3年生の時にいやいや書いた読書感想文をそっくりそのまま(原稿用紙のまま)提出したのでした!取っておいてよかったなと、この時は本当に思いました。後日返却された時に先生が「面白いものを読んでいるね」とおほめの言葉?を言われたことをはっきりと覚えています(先生、ごめんさない)。感想文の題材は、宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」でした。今読んでもいろいろと考えさせられる内容だと思います。ブドリの様な行動は私には無理そうですが。最後の方にある『「先生、気層のなかに炭酸瓦斯が増えて来れば暖かくなるのですか」』というくだりには考えさせられます。
文章を書くにはどうしたらいいのだろうかと本格的に意識し始めたのは、大学受験に失敗して一浪していた時だと思います。あるきっかけで小論文のある大学を受けようかと思いはじめ、通っていた予備校の小論文の授業を受けることとなりました。講師は元北海道新聞の記者だったと記憶しています。最初の授業で書かされた小論文の講評をもらいに先生のところへ行くと、柳田邦男の「事実の読み方」を読みなさいと言われました(今も本棚にあります)。これ以来、書くことよりも著者の一連の著作に興味がわいてしまい、この頃からしばらくは柳田邦男ばかり読んでいました。そのうち小論文の授業は行かなくなり、小論文が必須の大学受験も選択肢からなくなりました。
この「事実」という言葉には、理系の学生だった自分には、実験データがすべてという世界ですから、惹かれるものがあったのかと思います。大学生時代に大学生協の本屋をたまたまのぞいていると、本多勝一の「事実とは何か」というタイトルが目に入り、すぐに購入して読みました。それ以来、著者の「貧困なる精神」シリーズをずっと読みふけっていました。個人的には学生時代に最も影響を受けた人かと思います。
本多勝一の著作をずっと読んでいると、ある時「日本語の作文技術」というタイトルの本がある事に気づき、早速買って読んでみたところ、「ああー、もっと早くこの本を読みたかった」というのが一番の感想でした(これだけだと「読書感想文」になりませんね(笑))。読書感想文うんぬんよりも、このような国語の授業を受けていたら、もっと国語の授業自体が好きになっていた(子どもの時は国語の授業が嫌いでした)かもしれないなと思ったものです。日本語の文章を体系的に論理的に説明しようとする内容には、理系の人間にはしっくりとくる内容だったのかもしれません。特に読点の打ち方について、これだけのことを考ええさせられたのは初めてでした。こんな内容の国語の授業を受けたかったとつくづく思います。
ただ、これを読んで日本語の文章を書くという作業がうまくなったわけでは決してありませんが、読みやすく論理的(修辞的に。もちろん内容も論理的でないといけませんが)な文章を書くという点はいつも気にして書いているつもりです。ただ、せいぜいこのブログの程度の文章ですが。でも勝手に好きなことを書くだけの時は気楽に書けますが、何かお題を頂いて文章を書くということにはいまだに苦痛感が伴います。
そんな自分が「技術士」試験を受けることは非常に大きな難関でした。二次試験の筆記試験であれだけの文字数を決められた時間内に書くというのは苦行です。ある時は試験問題を前にして何を書いたらいいのやらさっぱり思い浮かばず、1問まるまる白紙の状態で終わった時もありました。
技術士に合格して一つ思い出すのは、高校の現代国語で読書感想文を宿題に課した先生が、「試験で勉強する」といつも言っていたことを思い出します。優秀な人は1回ですぐに書けてしまうのでしょうが、私の様な凡人そうはいかなかったようです。
さてだいぶ長くなってしまいましたが、冒頭の話に戻ります。なぜ読書感想文なのか?せっかくの読書好きな子どもたちを読書嫌いにしてしまうかもしれません。そもそも文章を書くというのは、国語の授業に限らず様々な場面で必要になります。そういう意味では国語の授業は大切です。読書感想文を書かせるというのは、本を読ませるという意図もあるのかもしれませんが、あまりにもやり方が短絡的すぎるのではと思います。子どもに文章を書かせる工夫はいくらでもできると思います(本を読ませる工夫もしかり)。それをせずに単に読書感想文を書いて出せというのは、あまりにも工夫が足りないのではないでしょうか。言い過ぎかもしれませんが、先生の怠慢ではないでしょうか。
ちょっとした文章を書くことからでいいのだと思います。いきなり何か長く書かないといけないのかなと思うと、誰でも抵抗感があると思います。文章を書くことの楽しさ・面白さを感じられるような授業を先生方にお願いしたいです。
今回の新聞記事を受けて、数日後の読者欄に元教員の方からの投稿がありました。『「読書感想文より「紹介文」がいい』という題目で書かれた内容ですが、これなら自分でも書いてみようかなと思える内容でした。子どもに文章を書かせる工夫はいくらでもあると思います。
最後に、本多勝一の「日本語の作文技術」と、その後に発刊された「実戦・日本語の作文技術」(いずれも朝日文庫)を、文章を書くのが苦手な方に是非お勧めしたいと思います。文章を書く時の参考になるかと思います。ふと、昔家庭教師をしていた時の高校生が大学に合格した機会に「日本語の作文技術」をプレゼントしたことを思い出しました。レポートを提出する機会が多い大学生に、もちろん仕事で文章を書くことに苦労している社会人にもお勧めしたいです。